BRIEFING.333(2014.05.09)

コンパクトシティーの問題点

広域に人口が拡散していると、それらの人々が駅、病院、商業施設等に行く場合の移動距離の合計は、人口及びこれらの施設が一定の範囲に集中している場合に比べ、著しく長くなる。

人々が若く、長距離の徒歩や車での移動が苦にならない時代には大きな問題でなかったが、老齢化が進み、また公共サービスの合理化や化石燃料の消費削減が望まれる今、人口の拡散・点在は大変に不合理なことと認識されるようになってきた。

そこで提唱されているのが、ご存知のコンパクトシティーである。

人口が集中すれば、廃れた商店街も復活し、映画館、博物館、コンサートホールといった文化施設の経営も成り立つようになる。病院の高価な検査・治療設備は多くの人に有効に利用されるであろう。

山間部の道路や橋は使用頻度が減り、維持管理費を減らすことができる。不必要な街灯や下水道がでてくればその維持管理費も必要なくなる。山の自然も復活する。

ただ、コンパクトシティー化の過程において、人々の間に大変な不公平が生じることを忘れてはならない。

先祖代々、山間部の集落に住んでいる人、田舎暮らしにあこがれて家を買った人にとってはどうか。遠隔地のニュータウンに家を買った人にとってはどうか。それらの土地建物の価値は下落する。一方でコンパクトシティーの中心市街地に指定された地区に土地建物を所有している人にとってはありがたい話である。利便性が高まり資産価値も上昇する。

これらの損得を均す手だてを用意せねばなるまい。

かつて、工業(場)等制限法(すでに廃止)や税法上の買換え特例等で、人口と産業の地方分散が図られてきた。それはいわば国策である。それが今、転換をせまられている。国策に従った人や企業が今になって馬鹿を見ることがないような施策が望まれる。

また、村おこしと称して、伝統芸能の復活、観光客誘致の取組み、新たな商業施設の誘致等に尽力してきた人達もいる。その人達に「もうそのくらいにして町へ出てきませんか」と言うことができるのか、言うべきなのか。

「コンパクトシティー」になり損ねた「非コンパクトシティー」に住む人たちの金銭的損失、そして先祖伝来の土地への思いを忘れてはならない。


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