BRIEFING.526(2020.05.28)

日本家屋と感染の防止

Withコロナと呼ばれる時代だ。電車の吊革やエスカレーターの手すりにはなるべく触りたくない。事故に対する安全性と、感染症に対する安全性が相反し悩ましい。また、ドアノブは、ドアを開けるために必ず触らなくてはならず、しかもそれは1つのみ。皆がそれを触るから、ウイルスや細菌には大変喜ばしい物となる。

しかし格子の引き戸ならどうだろう。開ける際には、引手に指を掛けてもよいが、どの縦格子のどの部分に指を掛けてもよい。そうすると、多くの人が出入りしても、誰かと同じ場所に触れる可能性はうんと下がる。これは日本家屋に仕組まれた感染防止機能なのだろうか。

玄関には上がり框があって靴を脱ぐから、土埃は屋内に入らない。縁側も同様だ。しかも沓脱石は必ず建物と離れており、決して縁側とつながってはいない。これでウイルス、細菌も侵入し難い。尤もバリアフリーの観点からは最悪なのだが・・。

さらに、日本家屋は南面に広い間口の縁側を設け、室内に紫外線を取り込み易くなっている。ウイルスは紫外線に弱いと言う。雨戸は全部戸袋に収められ、障子や襖も外すことができる。欄間も換気・通風に寄与しただろう。西欧の小さな窓ではこうはいかない。

さらに、座敷で宴会をする場合、参加者は壁や、襖、障子を背にし、各自のお膳を前にして座る。向かいの人との距離は2m程度あっただろう。ソーシャル・ディスタンスである。西欧ではテーブルをはさんで向かい合うから、その距離は1mを切っているだろうか。座敷でも横の人との距離は近いが、食事中に唾液の飛沫を浴びる可能性は、西欧式よりはうんと低かったに違いない。

茶会でも賓客はなぜか横一列に並ぶ。亭主もそれに正面から向き合わず、横を向いて茶を立て、斜に構えて茶碗を差し出すような感じである。西欧のティー・パーティーなら、皆でテーブルを囲むことだろう。

時代劇の見過ぎと言われそうだが、街道の茶店の客席は、横並びの縁台が多い。そこで複数人が同じ方向を向いて茶と団子を楽しむ。西欧のカフェなら小さなテーブルをはさんで至近距離で向き合うところだろう。

他国からの使いが来たら、殿は一段高いところに座し、使いの者はひれ伏したまま名を名乗るから、決して飛沫は殿様にかからない。「面(おもて)を上げい」と言われてやっと顔を上げ「苦しゅうない。近う寄れ」と言われてやっと2m程の距離に近づく。これでも飛沫は防げそうだ。もっと高貴な人なら御簾(みす)の向こうで応対するから、さらなる飛沫対策があったと言えそうだ。

もちろん、握手やハグはしない。便所では下駄を履いてしゃがむ(尻はどこにも接しない)。神社には手水場があって参拝前には手と口を清める。「清める」とは正に「流行り病」すなわち感染症対策を念頭に置いた表現ではないか。

ところで、ダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」には、イエスを中心に12人の弟子がなぜか横一列に並んでいる。話が弾みそうにないが感染防止策だろうか。だがよく見ると、弟子たちは横を向いて隣の弟子と会話し、中には身を乗り出して一人向こうの弟子に話しかけている者もいる。これでは横並びの意味がない。なお「最後の晩餐」を描いたのはダ・ヴィンチだけではない。他に、皆が車座になって座っているものやら、顔を突き合わせて扇形に寝そべっているものもある。ダ・ヴィンチの横一列の意図は何だったのだろうか。


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