BRIEFING.629(2024.12.12)
左京区鴨東地区の通り名
京都市中心部の上京・中京・下京の3区は、京都御所を上として名付けられ、右京・左京の2区は、京都御所から下(南)を向いて名付けられたものと思われる。したがって左京区は、京都御所から南を向いて左(東)の方に位置する。その左京区の鴨東地区、即ち鴨川の東側の地区の道路には、妙な通り名が付けられている。
新麩屋町通、新富小路通、新柳馬場通、新堺町通、新高倉通、と南北の通りが5本、西から東へと並ぶ。京都に詳しい方ならすぐにお気づきだろう。これらから「新」を取った通り名は、中京区に並ぶ5本の通りの通り名なのである。そしてその並び方は、前述の並び方と全く逆、鴨川を挟んで鏡に映したかのようである。
おかしなことに、新富小路通、新柳馬場通、新堺町通は、東西の仁王門通から北で、新車屋町通、新東洞院通、新間之町通、と名を変える。そしてこの3つの通り名から「新」を取ると、中京区の高倉通より西に並ぶ3本の通りの通り名なのである。そしてなぜかこの3本の並び方は中京区の場合と同じなのである。さらに、新麩屋町通の1本西には新丸太町通がある。「新」を取れば丸太町通となるが、丸太町通は南北でなく東西の通り。90度違うではないか。
これには、宝永5年(1708年)の「宝永の大火」が大きく関わっている。
その火元は油小路通姉小路通角、今の「二条城前」駅と「烏丸御池」駅の間くらいの所である。そこから広がった火は、鴨川までの範囲を焼き尽くしたという。そしてその大火の後、御所が南へ広げられて(当初は公家屋敷として)今の丸太町通りまでとなったという。先ほど挙げた8本の通り(5本は「新」と逆順、3本は同順)は、どれも今の御所の南端から南へ延びる南北の通りだ(その東にさらに御幸町通、寺町通がある)。なるほど。
それによって立ち退かされた人々の移転先が鴨東地区の「新・・・通」であったのだ。このあたりの事情は、「都市大火史からみた近世京都の景観研究」(中村琢巳氏、塚本章宏氏、林倫子氏)に詳しい。
ついでに触れておくと、新間之町通の1本東には、西寺町通がある。おかしいぞ、中京区の寺町通から見て、それは東にあるから、東寺町通りと言うべきではないか、と思うが、実は西寺町通の東には東寺町通(今は拡幅されて東大路通)があったという。そこには、本家とは別に、西と東でセットになった寺町通があったのだ。
集団移転先に、旧地名を持ち込んだ例としては、北海道の北広島市(広島県から移住)や新十津川町(奈良県十津川村から移住)が有名だ。今回ご紹介した、鴨川を挟んだ西から東への移住はあまり知られていないだろう。
ところで、京都御所の南端を東西に走る丸太町通、その南側には、北側半分を失ったかのような狭い範囲の地名が残る。光リ堂町、関東屋町、鍵屋町、桑原町、昆布屋町、石屋町の6つである。これらの北半分が鴨東地区へ移転させられたとすれば、その町名が移転先に承継されていてもおかしくはない。だがそれは見当たらない。なぜ通り名だけが承継されたのだろうか。
宝永年間は災害の多い時代であった。宝永直前の元禄16年(1703年)に「元禄地震」があった後、宝永元年(1704年)に「浅間山の噴火」、同4年(1707年)には「宝永地震」と「富士山の宝永噴火」、そして同5年(1708年)の「宝永の大火」と続いたのである。