BRIEFING.404(2016.08.25)

「判断容認主義」と「偶然容認主義」

夏の「全国高等学校野球選手権大会」が終わった。その甲子園出場校は、地方大会を勝ち上がってきた高校のみであり、大会関係者の判断で出場が決まることはない。出場校の決定に判断の介在はないと言える。

一方、春の「選抜高等学校野球大会」の場合、その出場校は文字通り「選抜」される。その基準となるのは前年の秋期地区大会の成績等であり「21世紀枠」もある。その結果、出場校の決定には、大会関係者の判断が介在することになる。

しかし、春夏どちらが本当に強い高校が甲子園の土を踏むかは、悩ましいところだ。

春は何度かの試合結果や内容を吟味して選抜されているから、信頼性は高い。ただ、実力の伯仲する2候補のいずれかを選ばねばならなくなった場合、どちらになろうとも不公平感が残る結果になる。

では、夏は真に実力ある代表を選び出すと言えるだろうか。試合内容で圧倒していた優勝候補にツキがなく、伏兵にサヨナラ負け、となるといかがか。運も実力のうちとは言うものの、一発勝負で真の実力者が勝つとは限らない。運・不運や偶然の介在を容認していることになる。

夏を「偶然容認主義」とするなら、春は「判断容認主義」と言うことができる。

日本のマラソンの五輪代表選考過程は「判断容認主義」、サッカーのワールドカップ予選は「偶然容認主義」であろう。

「判断容認主義」では、たまたまを避け、真に強い選手、チームが選ばれ、好不調の波がある一発屋は排除される。しかし「偶然容認主義」こそがスポーツの醍醐味と言うこともできる。一発屋がエリートに勝てば面白い。

さて、不動産鑑定評価には「判断容認主義」が取られているといってよい。

たとえば、取引事例比較法における取引事例の選択、地域要因比較、個別的要因比較、比準価格の決定等、多くの場面で「判断」が用いられる。違和感(主観的であるが)のある事例は選択しないか、選択しても参考に止め重視はしない。

偶然を「違和感」というフィルターで関知して濾過し、漉された正常値を積み重ね、さらに様々な判断を織り込んで結論を紡ぎ出すべきなのだ。

だが、次の様な反論もある。

先入観なしにデータを収集し、恣意性を排して結果を算出し、仮にその結果に違和感があっても事実は事実として認めて、結論を導くことが、真実を追究する者の態度ではないか。

現実的には、不動産鑑定評価に「偶然容認主義」が馴染まないことは論を俟たない。が、その理由をうまく説明できるようにしておく必要はあるだろう。


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